昭和58年08月01日 月次祭



 皆さんこんばんは、今朝(  ?  )お許しを頂いて帰って参りました。沢山の人の沢山のお祈りを頂いて、日々有り難い毎日を過ごさせて頂きました。有り難いと言う心はこれで良い、これだけというものではなくて、限りがないものです、その有り難いを身に心で、いわゆる全身全霊で受け止めて行くということが信心、信心は一生が修行と仰せられます、その修行もまたいとうてはなりません。
 限りない天地の御恩恵の中に浴するとと言う事は、これは信心があろうが無かろうが、その御恩恵に浴しておるわけである、ひたっておる訳である。けれどもそれを感じ取らせて頂くと言う事は、いよいよ深く広く信心に、更にそれを感じて行けれる生活、信心生活。これだけ分ったらもう合楽で言われる、合楽理念もマスターした、もう是がなるほどそうですけれども、それを自分の上に実験実証していくと言う事は限りがありません、もうほんとうにそれを、つくづく感じさせて頂きます。
 有難いというておった有難いが、今の有難さに比べたら比べものにならない位いに有難い。ならこの有難さがこれでよいかというと、恐らく生涯この有難さは大きく広く育って行くことだろうと思います。そこにはおかげの世界がまた広く深く、伴のうていくということでございます。問題は私しの心の中に、その有り難いが生き生きとして育っておるかいなかを、毎日確かめておかげを頂かなければいけないでしょう。
 もう10日も前したでしょうか、ここで平和の何々大学でしたかね、人種のディユックさんという米国の方が、ご夫婦で竹内先生が案内して、病院に見舞いにまぁ見舞いというよりも、今度本国の方に国の費用で親子6人帰らせて頂く事になった。それについては親先生にお目に掛って一言でも御理解を頂きたい、というての願いを聞かせて頂きまして、私しはディユックさんの手を握って、日本人とかアメリカ人とかじゃないです。
 本当に天地のご恩恵の中に、おかげを頂いておる自覚を持って、その有り難さを実験実証さしてもろうて、それを自分の周辺にも広めて行く、そういうあなたには、ひとつ責任があるんですよと言うて申しました事です。ちょうど私しは寝る前にお知らせを頂いていましたが、昔会えたぎょう小唄の中に、月のわびしい路地裏で、屋台でお酒を飲んでおるの模様です。
 もうそれこそ屋台ですから、5人か6人か腰掛けたらもう一杯になりますけれども、飲むごとに酔うほどにその、気分を知らぬどうしが小皿叩いて、チャンチキおけさと言う様にね、酌み交わしながら全然知らない。そういう情景を頂いて、問題は有り難き、勿体無き、畏れ多きとおおせられるこの心は、自分の心の中になからなければ、ひとに与える事も出来ません。
 お酒はこんなに美味しくて気分のよくなるもんだと説明さして頂いて、どんなにこれはなになにの名酒ですと言うても、飲まなければ分りません。飲んでそれを味あわせてもろうて、それを隣から隣へと広がって行く、そういう、もしもそこに人がいて、その事を伝えさせて頂いた訳ですが。ディユックさん、ここで英語の乏しい先生方の会合がありました時に、見えたのが御縁の始まりで、自分が抱えておられる大変難儀な問題を、お取次ぎを頂かれてひとつひとつおかげを受けていかれた。
 お参りをして教えを頂かれる事がいよいよ有難うなっていった。そういう時に丁度合楽では一切信愛論が出版されました、それを読んで感動されました。これを自分の国へ持って帰って皆んなにも伝えたいここから一心発起、英語の先生をなさっておられます、ここの安武先生ここの竹内先生三人が話し合って、その御本の翻訳に取り掛かられて、もう半ばそれを成就したと話して参りましたが、本当に神様の願いは限られておる。その願いをお互いが自覚する、始めの間は自分のただ願いを聞いて貰うための神様から。
 その神様の御心が分り、その神様の御心に応え祀ろうと言う。いう心願成就のためのお互い信心にならなければ、限りがないと言うおかげ、限りがないと言う修行に取りくむこともできません。私しの周囲神願が成就していっておるという、信心生活を差して頂いて、私しはその時に聞かせて頂いた話ですけれども。不思議な不思議なお話です。私の久留米のいとこがあちらに縁について、もう14、5年前でしたか参っております。美代子と言うレストランえを主人が経営されておられます。
 彼がまだあちらに居られる時にそのレストランで、その都と言う名のレストランが何か心惹かれる思いで、そこに日本食を食べに行った、そして聞かして頂いたところが、奥さんの名前がみやこさんという日本人の方を貰っている。だから非常に印象に残っているお話が、私しのいとこである事が分って、はぁこの広い世界にそういう微妙なまでの神様の働きを、受けに受けての合楽との御縁である。
 これはディユックさんと合楽だけではありません。皆さんの一人一人はそういう神様の願いが掛けられての私し。今も申します様に分れば分る程、それこそ飲む程に酔うほどに有り難うなっていくという、この信心をいよいよ身に着けさせて頂いて、ご神願に応え祀りたいと思います。限りない御恩恵、甲も乙も一様に御恩恵の中に入るのですけれども、それを受けとめる心はそれぞれであります。
 いわゆる日々合楽で言われる成り行きを尊び、大切にさしてもろうて言うならばそのときそのときの、主人の成り行きそのものを神の御働きとして受け止めて、これとの日々対決である。それをどう受けるかと言う事である、中には勿体無い程しのおかげの事もありましょうが。もうこれ以上の苦しみは無いと言った様な、苦難に出合う事があるかも分りません。けれどもその中に心情溢れる神様の思いが秘められておる。
 それを私共が分った時、信心の悟りというのではないでしょうか。悟らして貰うと御礼を申し上げる外にはない。有り難い有り難い、勿体無い勿体無いと申しましても、ならどれ程その神恩に対して応え祀れれる、信心生活が出来ておるのか、もうもまれてももまれても足りません。そこには求められるのは普段の信心であります。もう朝一遍参ったかれとか、月次祭には欠かした事は無いとかという信心から、もう一歩深みに入って行けれる信心を身に着けさしてもろうて。
 いよいよ有り難い勿体無い、いくらお礼を申しても申しても、申し足りないお詫びばかり申しておりますと、三代金光様が申上げたと言う事ですが、そのお礼とお詫びを土台として、それでもう願わんでよいかと言う事は無い、もう願い夏の雲のあの入道雲のように、次から次と願いは大きく広がって行くものです。その願いをね、させて頂き一つひとつ成就していく、おかげともして行きたい、いよいよ今月は8月16日がその願いを一つにして大祈願のお祭りがここで奉仕をされます。
 お互いあと15日か何を願い、何を祈るその内容を確かめて、心願成就の発信でも、自分の祈りが通うておるか。その天地と私共との交流、その接点を求めて大祈願祭に臨みたい。そこに通う一つのパイプの様なものを、辿っておかげは流れて来るのだと。大祈願祭いうなら筋の立った、これなら神様も喜んで下さる。しかも自分が助かるだけではない自他ともに助かっていけれる信心を求めて、おかげを頂きたい。
 今日は退院んのお許しを頂きましたっけれども、いままでに勝手ない程に身体がきつくて、ぶらぶらで身体を支えて貰わなければ、歩く事も出来ない様な状態でございますが。それこそどういう私情でも、どっこいと受け止めさせて貰うて、私情の成就を願っておる次第でございます。お互いの信心の見直しを、今金光教100年のお年がらに当って様々な、行事やら100年を境に皆さん、私しが病気しとる間に合楽は変わりました。
 合楽と言うが、教団の動きというものは、例えば、唱える言葉一つにしましても、御祈念の方法に致しましても、より本当な事へ、一歩前進しているように思います。これは何処までも、形式であり形である。何が一番この100年祭に新たなものとして、頂かなければならないかということは、ディユックさんに話を致しました様な、自分に有り難いというものを隣に伝えて行く、有り難いものが無からなければ、それは伝えられません空話に終わります。
 自分の有り難いというものはそれをいうなら、知らぬ同志が小皿叩いてチャンチキおけさじゃないけれども。知らぬ同志にでもそこに伝えて行けれる内容を、いよいよ身に着けて行きたい。与えれば温かみを感じ、つつけば血が飛び出る様な生き生きとした、金光大神の信心の、根本の所をもう一度改めて教団に、全てがいわゆる始めから大きな教会やら、大きなおかげを望む事はいりません。とにかく合楽のおかげの家庭と言うものが30年前に椛目で、六畳の一間で人が助かりいつも参拝者で一杯である。
 少し足りないからと言うて一部屋、二部屋ともう広げる余地はないようになって。合楽に参りまして大きなお広前を頂いたが。もうお広前が大きくなったらなった時点で、もう人が一杯でした。会堂が出来ました、会堂が出来たらやっぱり出来た時点から一杯の人がご参拝をなさる様になりでした様に。おのずと頂けれるおかげ、始めはいわゆる屋台のま半道のような5、6にんで一杯になるような、それでもこう知らぬ同志がね、盃を交わせれる様な雰囲気を、自分の信心の内容として拡げて行く。
 そういうところに着眼しての信心市場になりますと、百の市場よりも千も万もの市場がですから、市場ですから楽な事はありませんけれども、それが尊いもの有り難いものとして、変わってくるんです。どうぞまぁ大祈願祭を目指して大きな筋の通った願いに立っての御大祭を頂きたいと思います。それは何処までも御恩恵に浴しておると言う、私にはこの神様を外しては生きられないと言う思いを。
 これも先だって普段の信心まだいいぞと言うお知らせを頂いて、自分の信心の普段の信心を思うてみる時に、大抵いい加減に生神金光大神様天地金乃神様とお唱えしょうと思っているのですけれども、神様からご覧になると、まだまだ普段の信心が目が粗い、その水も漏らさぬほどしの普段の信心とは、どういう事であろうか、一晩中その事を祈り続けました。そしたら神様から花札ですね、あの花札と言うカルタあの中に松の絵がついて、鶴がこうあのカードを隅の方におてんとう様がこう出ておられる。
 隅の方にこう、おてんとう様が書いてあるから、まぁいうなら三角になっておる。けれども、あらぁこのおてんとう様は三角だなと言う人はないでしょう。真ん中に三角が書いてあるなら、このおてんとう様は三角じゃんね、隅のほうにこう書いてありますから、はぁあこりゃ丸いんだなとこう分る様に。普段の信心本当にこれでよいのか、これでよいのかと自分をいよいよ見極めさしてもろうて、より本当の事が分りたいそこに本当の信心ではなくても。
 足りなくても、神様はそれを丸いものとしてお受け下さるのです。問題はその情熱です、本当なことが分りたい、真の信心が頂きたいその情熱を私しは、お礼とお詫びを土台とした日々が生き生きとした願いに立っての、信心をなだんなく頂いて行きたいと思います。ひと言御挨拶をさせて頂こうと思いましたら、少し長くなりましたが、どうぞ皆さん本当の祈願祭にふさわしい祈りの内容を、改めて確かめながら、日々の信心資料に取り組んでいきたいと思います。
   どうぞよろしくお願いいたします。